シンガポールでは、2017年4月に、労使間の紛争を低額な費用で迅速に解決するという目的のもと、労使間の賃金紛争を専門に扱う「雇用請求法廷」(Employment Claims Tribunals。以下「ECT」と呼びます)が裁判所内に新たに設置され、その運用が始まります。
☞ ECT設置の背景
従来シンガポールでは、労使間で賃金の支払に関する争いが生じた場合、裁判所における通常の民事訴訟の他にも、比較的迅速かつ安価な紛争解決の手段として、人材開発省(MOM)における裁定制度(いわゆるLabour Courtと呼ばれる制度)が用意されていました(*1)。もっとも、月収がS$4,500(約33万円程度)を超える管理職・上級職の人や、法定機関・政府で働く人など、シンガポールの雇用法が適用されない人は、この裁定制度を用いることができず、比較的時間とコストのかかる通常の民事訴訟を提起するしか法的な紛争解決手段がなかったため、訴訟を提起してまで紛争を解決することが躊躇される傾向にありました。こうした状況を解消するため、2014年に人材開発省が、労使間において低額な費用で迅速な紛争解決を図る新たな裁判機関として、ECTを設置する旨を提案し、それを司法省や、地方裁判所、全国経営者連盟(SNEF)、全国労働組合会議(NTUC)等の意見も踏まえて具体化した法案が、この度2016年8月16日の国会において可決されました(*2)。
☞ どのような紛争に適用されるの?
- 適用される紛争類型:主に賃金の支払に関する紛争が対象となります。具体的には、ボーナスの支払や残業代、退職金、解雇予告期間中の賃金、出産給付金の支払など、雇用契約に付随する法定された18種類の請求が可能とされており、賃金以外の解雇の有効性などを争うことはできません(*3)。
- 申立金額:原則として2万シンガポールドル(約150万円程度)が上限で、労働組合が関与する紛争では、3万シンガポールドル(約225万円程度)が上限となります。
- 申立期間:雇用契約が継続している場合には権利発生から1年以内に、雇用契約が終了した場合には雇用契約終了から6ヶ月以内に申立を行う必要があります。
- 申立の主体:あらゆる賃金水準の従業員が利用可能であり、そこには、雇用法による保護の対象とならない公務員や家事労働者、船員も含まれます。
☞ どのような特徴があるの?
- 判断する人と判断の方法: パブリックコメントに対する回答によれば、ECTはシンガポールの地方裁判所のもとに設置され、シンガポールの裁判官が、シンガポールの法令、判例等のルールに従って判断をすることが予定されています。また、証拠や関連書類を提出させるために第三者を召喚することも可能となる見込みです。
- 調停前置:ECTへの申立に先立ち、2017年4月に新たに設置されるTripartite Alliance for Dispute Managementにおいて調停を受けなくてはなりません。
- 調停の効果:調停において労使間で合意ができた場合には、両当事者が合意書に署名をします。その内容は裁判所において登録されて、裁判所の判決と同様の拘束力を持ち、強制執行が可能となります。調停において合意に至らなかった場合には、ECTの手続に移行します。
- 不服申し立て:パブリックコメントに対する回答によれば、ECTで敗訴した当事者は、高等法院(High Court)に対して上訴をすることが可能とされています。
- 代理人なし:ECTにおいては、請求金額が少額であるため、代理人弁護士を選任することができません。
☞ 他の制度との比較
一方、日本でも、労使間の紛争に関しては、通常の民事訴訟と比べて簡易・迅速な労働審判という制度を利用することができます。
以下、日本・シンガポールの通常の民事訴訟・日本の労働審判・シンガポールのECTの内容をざっくり比較してみました。
日本・シンガポールの通常の民事訴訟 | 日本の労働審判 | シンガポールのECT | |
対象となる紛争類型 | 労使間の紛争に関しては、特段限定なし | 労使間の紛争であれば、賃金紛争のみならず、解雇その他の労働関係に関する紛争も対象 | 賃金紛争のみ(*3) |
手続の特徴 | 厳格な手続(手続の流れや主張・証拠の提出などに関して細かなルールあり) | 柔軟な手続 | 柔軟な手続 |
事前の調停の要否 | 労使間の紛争に関しては、不要(任意) | 不要(任意) | 必要 |
拘束力 | あり | 異議があれば、通常の民事訴訟に移行。異議がなければ、判決と同じ拘束力あり | あり |
要する時間 | 比較的時間がかかる | 迅速(3回以内の審理で終結) | 迅速(*4) |
要する費用 | 比較的高額(*5) | 比較的高額だが、通常の民事訴訟よりも低額なことが多い | 低額(*6) |
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ECTの詳細なルールは、未だ検討中の段階であり、2017年4月までには詳細が発表される見込みです。
労使間の賃金紛争は、どこの国でも頻繁に起こります。シンガポールでビジネスを展開する場合にも、従業員として働く場合にも、この制度の存在と概要を知っておくことは将来きっと役に立つでしょう(*7)。
〆
(*1)この紛争解決制度は、雇用法が適用される従業員に限って認められており、人材開発省の労働委員が賃金紛争の内容を聞き、それに理由があると判断した場合には、その使用者に対して一定額の金銭支払の命令を行います。
(*2) シンガポールの雇用法の一般的な特徴は、こちらをご参照下さい。
(*3)パブリックコメントに対する回答によれば、まずは賃金紛争のみに限定をしたが、将来的にはECTの適用範囲が賃金紛争以外の解雇紛争等にも拡大される可能性もあり得るとのことです。
(*4)解決までに要する具体的な時間については、現在公式な発表はされていません。
(*5)申立費用や証人の費用など種々ありますが、弁護士費用がメイン。なお、シンガポールでは成功報酬が禁止されており、弁護士の稼動時間に応じて金額が決まるタイムチャージで計算されるのが一般的です。
(*6)パブリックコメントに対する回答によれば、申立費用に関しては、低く抑える方向性で、金額を現在検討中とのことです。